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喜劇辞典 は行

【バーレスク】:(burlesque:英語)

からかうという意味の伊語<burla>から生まれたコトバ。文芸におけるバーレスクは、既存の文芸作品やジャンルの約束事を誇張したり筋立て・文体をもじったりして茶化した作品のこと。イギリスで盛んだったが、19世紀に入り諷刺性が薄れ大衆化した。代表作家はジョージ・ゴードン・バイロン。他方、アメリカでは19世紀後半、下品で滑稽なしぐさを呼び物にした大衆芸能をバーレスクと呼ぶようになった。性的な素材によって笑いを誘うコント、女性の肉体美を売り物にした踊り、歌やマジックなどからなる。このバーレスクがやがてストリップショーへと移行していくが、日本ではさしたる区別もつけられぬまま、昭和20年代前半にともに繁栄した。このジャンルで芸を磨き、芝居・ミュージカル・映画などに進出した芸人は多い。サイレント期の人気スターだったウィル・ロジャースやチャーリー・チェイス、またジェリー・ルイスなどが代表的。日本でも由利徹、八波むと志、渥美清、三波伸介、東八郎、内藤陳、前田隣などがバーレスクないしストリップ出身のコメディアンとして挙げられるだろう(舞台で脱いでいたわけではない)。(A/F)

【パイ投げ】

相手の顔へ食物を投げつけるギャグ。
歴史は古く、発明者や開発国は不明。投げつける者(優位)と当てられる者(侮蔑)の相関性と、投擲物(食物など)を本来の用途以外に使用する事でギャグが成り立つ。映画がモノクロでしかなかった1910年代前半に、アメリカのマック・セネットは視覚効果が絶大で汚物感を覚えさせないモノとして「カスタード・パイ」を選定、以降、今日のカラー放送までパイは白色がグローバル・スタンダードとなっている。セネットは慣性重量や飛行距離を厳密に計算したサイズのパイを製造していたとされるが、現在のTV番組では、ウレタン・フォームやスポンジにシェービング・クリームを塗ったものが多く代用され、投げる'行為'も激減した。(A)

【パロディ】(parody:英語)

よく知られた作家や作品の物語や特徴を巧みに真似して面白さを出す手法。からかうことが目的の場合もあれば、原作へのオマージュ表明の場合もある。バスター・キートンはヴォードヴィル時代を回想して、伝説的マジシャン、ハリー・フーディーニなどの演目を茶化すことが何よりも楽しく、また茶化された俳優仲間もそれを何よりも喜んでいたと語っている。つまらない芸はパロディにする価値がない。優れた作品だけがパロディに値するのだ。メル・ブルックスの『新サイコ』『スペースボール』などは『サイコ』『スター・ウォーズ』といった超有名作品のパロディ映画として映画ニッチ史上、確固たる位置を占める。『シコ踏んじゃった』『Shall we ダンス?』で有名な周防正行監督のデビュー作『変態家族 兄貴の嫁さん』は、全編小津安二郎の文法をパロった才気溢れるピンク映画である。(F)

【パントマイム】(pantomime:英語)

身振り手振りで状況説明や形態模写を行う無言劇。
ゼスチャーより高度な技量を要するプロフェッショナルの表現術で、この専門の演技者を「パントマイミスト」「パントミミック」「マイム」と呼ぶ。「パントマイマー」は和製英語。起源は古代ギリシャの「mimi」で、これが視覚的な芸に発展しローマへ波及して「mimus」となり、帝政ローマ期に「pantomimus」へ変容、中世に我々の知る「パントマイム」となった、とイギリスのコメディ研究家トニー・スティーブエイカーは語っている。身体表現を至上とする演技であり、ジャグリング(ボーリングのピンに似たモノや玉などを複数投げ上げ空中で廻す)、曲芸、楽器演奏なども行う演技者の場合は総称してクラウンと呼ぶ。映画史上のパントマイム人間国宝といえばチャーリー・チャップリン、スタン・ローレル、ハーポ・マルクスが挙げられよう。作品ではジャック・タチの『パラード』、メル・ブルックス監督『サイレント・ムービ-』のマルセル・マルソーは必見!
蛇足ながら、1998年にノルウェーとオランダで発見されたロスコー・アーバックル&バスター・キートン師弟コンビの初期短編「The cook」では、コーヒーの入ったカップとソーサー、スープの入った皿などでジャグリングを行っていた・・・(A)

【ピエロ】(pierrot:仏語)

道化役のひとつ。白いだぶだぶの服と白い帽子、白塗りの顔が印象的。コメディア・デ・ラルテの脇役ペドロリーノから派生した。もともとは田舎言葉まるだしのまぬけな百姓といったキャラクターだったが、のちに「舞台で涙を流す悲しきピエロ」のイメージが定着していく。フランス映画『天井桟敷の人々』でジャン・ルイ・バローが演じたピエロが有名。また現在のイタリア人が思い浮かべる「ピエロ」とは、目の下に涙が描かれたマスク姿でカーニバルに登場するキャラクターなのだという。
日本では「ピエロ」が「クラウン」(道化師)の総称だと誤解されている。(F)

【飛躍】

笑いには古来四十八手の奥義が存在するといわれるが(!?)、そのひとつ。「飛躍」とは論理や考え方などが順を追わずに飛び越して進むこと。笑いを生む「秘薬」。『マザー・グース』の唄に「牛が月を跳びこえ、小犬がそれを見て大笑い」するものがあるが、論理の呪縛を越えた「飛躍」とは、つまりこういうイメージである(説明が飛躍しすぎ?)。「飛躍」のきっかけは、言葉の「韻」だったり、無関係なモノのデタラメな組み合わせだったり、確信犯的な誤解だったり、常識はずれの誇張だったり、いろいろある。その飛躍の仕方に笑いのセンスが問われるわけだ。
ピアノの前に座り作曲中のベートーベン。何音か探りながら弾くメロディー。これはあの名曲『月光』誕生の瞬間か?…と思いきや、彼が体を揺らしリズムミカルに弾き出したのは、なんと20世紀のジャズのスタンダード曲だった・・・たとえばこんなコントの場合は、時代と音楽史の常識を思い切り飛び越えたところに笑いの鍵になっているといえるだろう。(F)

【ピン芸人】

ピンからキリまでの「ピン」、またはピン・スポット(スポット・ライトなど、光軸が一本に絞られた舞台照明)を浴びる演技者、転じて人気絶頂の芸人や主役を示す。最近では単独で演じる者(漫談や落語、または漫才コンビのうち独りだけが出演する場合)もピン芸人と呼ばれている。この「ピン」に実力や人気では到らない漫才の相方、または笑いをウリとしたくも二軍や予備軍のような世間的評価しか得られない人材が自らを「リアクション芸人」と名乗る場合もある。(A)

【ヴォードヴィル】(vaudeville:英語)

歌、踊り、アクロバットなどをとりまぜたコミカルな大衆演芸。中世フランスでノルマンディ地方のカルヴァドス県ヴィールという町から広まった諷刺的な唄『ヴォー・ド・ヴィール(Vaux de Vire)』が由来とされる。現代のヴォードヴィルというジャンルは、19世紀のアメリカでの巡業一座による演芸が端緒とされるが、いつ誰の公演が起源となったかは不明。(A)

【フォール】(fall:英語)

アクロバットでの「倒れる」技術。高度な訓練を要す。
基本形は直立の状態から両足を頭より高く蹴り上げ背中から落ち(背筋で受身を取る)、転んだ姿勢はV字開脚を伸ばしたままとする(プロレスラーの受身も同じ要領)。中級レベルでは「尻餅」(尾底骨を打ちつけたように見せ、大臀筋で受身を取る)、上級レベルでは全身を硬直させ棒のように倒れた後も頭頂を軸としてさらに一回転する、または後方へ空中回転をして腹で受身を取る等がある。ある能楽の流派では、この腹で受身を取る技術を奥義としているという。最も有名なフォールの名人はバスター・キートンであるが、映画道の師匠にあたるロスコー・アーバックルは140kgの肥大漢ながらフォールを体得していた。(A)

【ペーソス】(pathos:英語)

文学などで感情を揺さぶる作用。悲哀、哀愁などの表現。
哲学用語のパトス(情意)。ペーソスだけの物語では悲話となるが、身分格差や社会情勢などをギャグで表現する際のウラ技としてペーソスを使用すると心理効果は絶大、特に日本人好みのウエットな喜劇となる。ペ-ソスの達人にはチャーリー・チャップリン、藤山寛美、山田洋次監督がいる。ペーソスを盛り込んだ作品を一般的には「人情喜劇」と呼ぶ場合が多い。参考作品では、なべおさみ主演『吹けば飛ぶような男だが』、渥美清主演『男はつらいよ』、チャップリン監督・主演『モダンタイムス』など。
ペーソスを喜劇で使用する時の注意点は、ストーリーのツボへピンポイントでペーソスを挿入しなければならない。ツボを外したり、むやみに多用すると凡庸なアレンジとなってしまう。(A)

【ベッドルーム・コメディ】(bedroom comedy:英語)

1920年代に流行した痴情がテーマの喜劇。
直接的な性描写は一切なく、巧みなカメラワーク、編集などで秘め事を連想させるサイレント映画の芸術的手法。この手法がトーキーになってからはセリフを加えてスクリューボール・コメディへと発展する。ベッドルーム・コメディはセシル・B・デミル、D・W・グリフィスといった巨匠なども手がけており、デミル監督作品からはグロリア・スワンソンが大女優の道を歩み始めた。今日再見可能で最も有名な作品はエルンスト・ルビッチュ『結婚哲学』『陽気な巴里っ子』。(A)

【弁士】

主にサイレント映画で、映写中にスクリーン横へ位置し内容の補足などを行う演技者、または、映画が活動写真と呼ばれていた頃の'銀幕'実況解説者。
いきなり話は飛ぶが、三宅周太郎氏が明治・大正の喜劇人、曾我廼家五郎の青春期を解説するにあたって(丁稚時代に夜な夜な仲間を集めて自分の観た演劇を落語のように詳しく再演する行為を)芝居アナウンサーと表現していた。ならば、弁士は「映画アナウンサー」ともいうべきかもしれない。
元々の弁士とは、学校教育の普及していない時代、ヨーロッパなどの言語体系が複雑な国、様々な人種の共存する国、異国の文化など、スーパーインポーズ字幕(画面に翻訳文章を打ち込む技術)や吹き替え技術(アフレコ)が発明される以前に、観客の知りえない情報を補足する「同時通訳」みたいな役割を果たしていた者。日本では「活弁(活動写真の弁士を略す)」「弁師」「説明者」「解説」とも表記され、大正・昭和初期の弁士全盛期では、映画の内容や出演者よりも人気弁士による上演で興行が成り立つ場合もあり、「弁士番付」といった人気ランキングの一覧表まで存在していた。また、トーキー映画が出始めた昭和10年代は「音の出る映像」の物珍しさから瞬間的に興行成績は上がるも、すぐに旧来からの映画ファンによる劇場離れで逆に収益が急落する現象も起きた。この原因は、映画興行が弁士人気に支えられていたという状況に加え、洋画はまだ日本語字幕が発明されてないための「活弁トーキー」(後には「説明吹き込み式という日本語吹き替え版の原型となるサウンド方式)といった上映スタイルから、フィルムに収録された音声と弁士の語りが同時に聞こえる上演に観客が煩わしさを感じた事にあった。このような状況から、往時のわが国の映画業界における弁士の存在は、製作技術や映画史そのものとは別の次元で、いかに高い貢献度であったかも窺えよう。しかしこの弁士も、邦画のトーキー化や洋画の日本語字幕普及(発明当初は文字数や配列に紆余曲折があったという)によって、映画館からは姿を消し、ラジオや寄席演芸に活動の場を移す人気者と、廃業を余儀なくされる者に大きく分かれてしまうのであった。
そもそも「弁士」という職業は、講談師、落語家の流れを汲まず、独自に創造された大衆芸能であり、弁士人脈から派生した話芸が「漫談」となった。この「漫談」発案者は花形弁士の大辻司郎で、「漫画を語る」という意味からの命名であった。さらに、「漫談」から転化したのが「漫才」で、「俄(または仁輪加、仁和歌、二和加)」「三河萬歳」「尾張萬歳」などの伝統話芸を源とする人物同士の舌戦芸を1932年頃に吉本興業が改めて統合し、「漫才」という名称(表記)の新しい演目に発展させたものという。この進化過程に着目する限りでは、弁士と漫才師が同じDNAを持つ職種と考えられよう。 因みに第一次世界大戦の前のフランスでも、映画界の人気コメディアン、プランス・リガダンと人気歌手ミスタンゲットが映画から派生した「漫談」(と呼んでよいものか?)をレコード化した記録がある。
話を戻すと、異国文化になじみのない時代の日本人には、和風に意訳した内容を感情のこもったセリフ廻しで説明するスターが「弁士」であったという。幼年期の淀長センセイは「神戸の弁士は下品で、夫婦がタマゴを焼くシーンなんかも、当時の日本はタマゴが高級食材だったから、勝手に夜の営みに備えた強壮剤のハナシに内容を変えてしまうが、幼いワタシはそれがとっても楽しかった」と語っている。「弁士」というと日本固有の話芸を想起するが、パフォーマンスとしては映画が発明されて間もなくから世界中に存在していた。最も古い演技記録では、1896年にイタリアの道化師レオポルド・フレゴリが自作映画にアドリブでセリフをつけ上演していたとされる。このアドリブも弁士には重要な技量であり、ハラハラドキドキのシーンから静まり返った場内で突然観客の大きなクシャミが聞こえた場合でも「我らがヒーロー、運命を決める一瞬!大きなクシャミに翻弄されながらも冷静な決断で……」と機転を利かす事が喜劇上演では肝要である。近年、この弁士を'大正ロマンの伝統芸能'と考える若い世代が継承、普及してゆく動きもあるが、一方では往年のスター(花形弁士)に接してきた世代の 映画評論家などからは「映像美でイメージさせるシークエンスなども状況や画面構成を理解できずスクリーンに映っている事をベラベラ喋るだけで映画の解釈がまるでわかっていない」「物語や画面内の進行を追うのが精一杯で話術芸能としての役割を果たしていない」などと否定的な意見も出ている。ただし、弁士の語りとは、その時代の流行や言葉をアレンジした演者それぞれの表現法(口調)であるため、一概に近年の弁士だからと否定するものではなかろう。往年の弁士(徳川夢声、牧野周一、松田春翠)の話芸は、今日「説明吹き込み版」という戦前に製作されたプリントで再発見ができる。
尚、弁士の元祖は上田布袋軒、次いで駒田好洋とされ、いずれも明治末期に輸入された映画機器(キネトスコープやシネマトグラフ)の初興行での独自の口上(機材やフィルム内容を説明した)が最初とされる。それは演芸場などの演目のひとつとして始まり、やがて映画専門の劇場(当時は映画常設館と呼んだ)が増えるに従って、警視庁の許可制による「解説者」という肩書きの弁士たちが各地の劇場に専属雇用されたのである。膨大なデータ量を誇る映画評論家、児玉数夫氏の調査では、最後の洋画弁士(公認)は、弁士獅子吼大会というスペシャル・イベントを除いて、昭和11年で日本語字幕(スーパーインポーズ)に職を奪われたとの話。この映画館に雇用されていた最後の弁士は、東京の渋谷キネマに所属した木下卜児であったという。この弁士衰退を危惧した二代目松田春翠は、活弁芸能の灯を絶やしてはならずと自らマツダ映画社を興し、フィルムを蒐集して自主興行を行う事で活躍、春翠亡き後も一門の澤登翠らが今日まで「無声映画に弁士」の伝統を支えている。
前述の児玉センセイは、高等小学校(現在の中学校)の頃に観た、松井翠声の弁士版『キートン将軍』等を観た感想を「膝においた布鞄の重さも忘れるほど楽しかった」と語っている。著書『活動狂時代』によれば、その後に弁士は昼のラジオ番組『映画物語』にて、名画の採録ドラマを各々の語り口で演じていたとある。また、昭和11年のキネマ旬報4月中旬号の抜粋として
「トーキーの脅威下にある市内(注:この頃は都ではなく東京市)の説明者(注:弁士)は、現在1063名で、昭和元年の二千名にくらべると半減している。 これは警視庁認可の肩書きを持っている……<中略>……股旅のわらじをはいて地方廻りとなり、市内の紙芝居屋に転向した者も相当数に上っているので、警視庁では説明者認可制度を、近く廃止……<中略>……トーキー設備のあるのは二百三館に上っている」と、ライセンス制による劇場雇用の特殊職が、トーキーや日本語字幕の発明から衰退の一途をたどっていた、というような当時の状況も書かれている。この後に太平洋戦争での召集、空襲による劇場焼失などが弁士という職種に致命的な打撃を与えてしまった訳である。
蛇足ながら、アメリカTV番組『ミステリーゾーン』(最近は原題のトワイライト・ゾーンとして紹介されている)の昭和37年に放送された『昔はよかった物語』はバスター・キートン主演の無声映画風ドラマで、日本での放映のみ活弁ナレーション付きとなっており、ナンと!その時の弁士(ナレーター)を当時人気絶頂のコメディアン・柳家金語楼が担当していた!
因みに、当会主宰のイベントにおける人気芸能人の弁士アレンジは、伝統芸能へのオマージュではあるものの、直接的な流路とはまったく無縁のライヴ・パフォーマンスで、公演ごとに賛否両論を巻き起こしている!?(A)

【冒険活劇】

近年は「アクション・コメディ」とも呼ばれているアクションと笑いのスペクタクル。
サイレント時代はダグラス・フェアバンクス、トーキー初期にはリチャード・タルマッジ、その後にエロール・フリン、ジャン・ポール・ベルモント、アーノルド・シュワルツェネガーなどがスクリーン狭しと大活躍。勧善懲悪のドラマが基本形。その昔は喜活劇とも呼ばれていた。(A)

【ボケとツッコミ】

1980年代の漫才ブームから一般的なワードとなった、コンビ喜劇の編成。
主にボケ(加害者となる不安定要素)とツッコミ(ボケを是正するつもりで助長する)という図式でギャグを推進する。サイレント時代初期のコンビ喜劇では二人ともボケが基本で、ツッコミは第三者が行なうパターンとなっていた。1927年にスタン・ローレル(ボケ)とオリバー・ハーディ(ツッコミ)が登場するや、以降はコンビ結成の定型フォーマットとなる。例外的にツッコミだけのコンビ、ボブ・ホープ&ビング・クロスビーもあるが、バッド・アボット&ルー・コステロ、ディーン・マーティン&ジェリー・ルイスは、ボケとツッコミの典型。先祖帰り型ツイン・ボケではブルース・ブラザースがいる。(A)